番外編(田無今昔)   

今、田無駅周辺を中心に急速に再開発が進んでいる田無市。田無市はどんな過去を歩んできたのでしょうか。今回は、田無市の歴史について調査し、特集してみました。

田無の名の由来については、「大地で水がなく田が無いため」と言われていますが、他にも「田無の無(なし)とは、平らなところを意味する」とか、「山国のやまなしと同様、たなしも田のある所」とする説などがあり、本当の由来はよく分かっていません。

現在、全国では4番目、東京でも狛江市に次いで2番目に面積の小さい市です。


約3万年〜
 約1万年前



1290頃

1308.

1559.




1606.

1670.

1696.

1849.

1850頃

1868.

1873.


1879.

1889.

1893.

1915.

1927.




<太古の田無>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
田無の詳しい歴史は、平成元年1月から行われた田無南町遺跡(現都立田無養護学校)の発
掘調査によって、旧石器時代(約1万年〜約3万年前)や縄文時代(約1万年前)の歴史まで
が明らかになりましたが、それ以前については史料が無く、よく分かっていません。

尉殿権現(田無神社)ができる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

延慶の板碑−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<最初の記録>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「田無」の名が残る最古の文献は、永禄年間(1558〜1569)に北条氏康によって編さんされ
た「小田原衆所領役帳」で、この中には大田新六郎という武将が田無と南沢(現東久留米市)
を治めた、と記録されています。

青梅街道が開通−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

尉殿権現(田無神社)を今の場所へ移す−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

田無用水ができる−−−−−−−−−−−−−

農兵隊がつくられる−−−−−−−−−−−−

手習い所(寺子屋)ができる−−−−−−−−−

振武軍が総持寺に集まる−−−−−−−−−−

真誠学舎開学−−−−−−−−−−−−−−
                                駅前再開発以前の田無駅周辺の様子

町制施行。神奈川県北多摩郡田無町となる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

境新道開通−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

東京府に属する−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

田無に電灯が引かれる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<田無駅の開業>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1927(昭和2)年、西武線(現西武新宿線)が開通しました。「田無駅」も開通と同時に開業
しましたが、1922(大正11)年に武蔵野線(現西武池袋線)に「田無町駅(現ひばりが丘駅)」
が開業しており、乗客の降り間違いが相次いだそうです。


 



<戦時中の田無>−−−−−−−−−−−−−−−−−
三共株式会社田無工場は、軍向けのパン用乾燥酵母を生産していました。ここには強制労働を強いられた人もいたそうです。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲以降、田無でも空襲は一層激化しました。4月12日の大空襲では、6個の1t爆弾が投下され、130人以上に及ぶ犠牲者を出しました。
駅前再開発中の田無駅周辺の様子

市制施行−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

都立田無高校開校−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<田無タワー(西東京スカイタワー)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1989(平成元)年6月完成。避雷針を含めた高さは195mで、電波塔としては東京タワー、
福岡タワーに次いで全国で3番目の高さ。外観は、古寺を思わせる三重の塔をデザインしたと
言われています。130mまで昇れるエレベーターはありますが、今のところ展望台はありません。

<合併構想の今>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
構想が最初に浮かんだのは1953(昭和28)年で、当時は武蔵野市・田無町・保谷町・小金井町
の1市3町の合併構想でした。その後、久留米町(現東久留米市)も構想に加わるなどの動きが
ありましたが、結局、1963(昭和38)年に田無町・保谷町での2町合併による市制施行の方針
が決定しました。しかし合意には至らず、1967(昭和42)年1月1日の両町同時の単独市制施
行以降、話は立ち消えとなっていました。その後、1990(平成2)年に現田無市長が再び合併推
進を表明、1997(平成9)年4月に「今任期中での決着」を公約に4期目の当選を果たしていま
す。そして1998(平成10)年4月、田無市役所内に、「田無市・保谷市合併推進協議会」がおか
れました。1999(平成11)年10月に「田無市・保谷市合併協議会」になり、現在に至ります。
なお、現保谷市長も合併推進派です。

1940.










1967.

1983.

1989.




1999.









 

田無の歩みを調べる中で、沢山のエピソードに出会いました。将来、どんな出来事が待っているのでしょうか。より明るく、より住みやすい町になっていって欲しいものですね。


写   真:田無駅北口地区第一種再開発事業「田無」(田無市発行)より
参考文献:田無いま・むかし(田無市立中央図書館蔵)


取材・記事:伊藤力(13期) 大場崇史(14期)