佐藤 浩希さん(6期)
佐藤さんは、田無高校在学中からボランティア活動に励み、福祉の道を目指して専門学校に学びました。専門学校在学中にフラメンコの世界に魅了され、プロとしての道を歩み、現在、フラメンコ舞踊家として活躍をされています。



 

 

佐藤 浩希(さとう ひろき)

・1972年生まれ
・1991年3月 田無高校卒業(6期)
・1991年4月 練馬高等保育学院保育科 保育士資格取得
・1993年4月 同介護福祉科 介護福祉士資格取得
・1992年 のちに奥様となる鍵田真由美さんにフラメンコを師事
・1996年 現代舞踊協会「河上鈴子スペイン舞踊新人賞」、
       日本フラメンコ協会「フラメンコ・ルネッサンス21特別奨励賞」
・1997年 神奈川県芸術舞踊協会「ヨコハマ・コンペティション最優秀賞」
・1998年 文化庁芸術祭に「レモン哀歌〜智恵子の生涯〜」で初参加、新人賞
・2001年 宇崎竜童作曲、阿木燿子作詞によるフラメンコ版「曽根崎心中」で
       文化庁芸術祭優秀賞

 現在、公演活動のほか、奥様とともにスタジオ「アルテ・イ・ソレラ」を主宰し、後進の指導にあたるとともに、ビデオや本の出演、監修、テレビ番組への出演、振付、指導など幅広く活躍をしている。

−初めに、フラメンコとの出会いについて聞かせてください。

 高校卒業後、一年くらい経ったときに、武蔵野ボランティアセンターが長野県の安曇野で行った合宿に参加しました。そこに、フラメンコを習っている女性が来ていて、僕も音楽が好きだったのでフラメンコの話になり、音楽は聴いたことはあるけれど、踊りは見たことがないと言ったら、踊りがすばらしいからぜひ見て欲しいと言われビデオを借りました。
アントニオ・ガデスの「血の婚礼」という作品だったのですが、そのたった一本のビデオにすごい衝撃を受けて、これは自分でも踊りたいなという気持ちになりました。今まで、自分で楽器を弾いたことも踊りを踊ったことも全くなかったのですが。(笑)


−福祉の道からフラメンコの世界へ全く違う世界のような気がしますが。

 自分が福祉の仕事を選んだというのは、高校時代のボランティア活動からつながってきているのですが、その魅力は、人間同士、人間と人間が丸裸になって関わり合う仕事というか、でも、その中で人間の優しさや、それだけじゃない醜さや、すべてを直視しながら、仕事をしていかなければならないじゃないですか。そういうところに、やりがいというか醍醐味を感じてやっていたわけです。人々の幸せだとか欲求、喜びだとかというものをどうにか探していくという、大変なこと何ですれけどもそういうことを福祉の仕事の中で、人に対してもそういったことを教育していきたいし、自分自身も人の生きる道とはなんなのだろうかということの問い詰めをずっとしていたんですよ。


−そういった福祉への思いとフラメンコがつながったということですか。

 作品の中で描かれているのは男女の愛の物語なんですけれど、すごく直接的に人間の姿というのが、大地を「ダダダダン!」と踏み鳴らして、心の奥底から叫ぶような歌で表現されていて、ギターもガーッと感情をかきむしるようなすごい激しさがあって、遜色のない人間そのままの姿が描かれているんですね。最終的には恋人同士、恋敵と争って死んでいってしまうんですが、その死というものが非常に僕には美しく見えて、それが、なんというか人間の本質みたいなものをえぐり出しているように感じたんです。


−それで、自分でも踊ってみたいと思うのはすごいことですね。

 芸術として、僕の大好きな音楽というものと踊りというものが、一体となって表現されているというところに、すごく感銘を受けました。まさに、これは僕がやりたかったことだなって思ってしまうくらいの衝撃でしたね。福祉で目指していること、自分が音楽が好きだったと言うこと、それと芸術と、自分が仕事で求めていたようなことが、ひとつの理想的な形として結びついたのがフラメンコだったんです。


−趣味の世界にとどまらずにプロとして習われたわけですか。

 最初はもちろん、いきなりプロになろうと始めたわけではないです。そのまま福祉の仕事に就こうと思っていましたし。杉並の方南町にあった鍵田のスタジオに専門学校に行きながら通っていたんです。一年くらいして、ほんとにもう夢中になって、フラメンコの虜になってしまったんですね。どっちも二足のわらじを履いて出来るようなことではないと、フラメンコも福祉の世界もやっぱりどっちかにしぼって、本格的にやっていかないとだめだなと。親もすごく心配していたんですけど、自分自身も全く保証もないし、踊りの世界というものをその時始めることに対して、すごく恐怖心がありました。福祉の道へそのまま進めば安定するじゃないですか。

  でも、ほんとにそれが自分のやりたいことなのか、そこを今僕は問われているんだなと。今までやってきたことに対して、逃げてしまえば福祉の道なんだと。今までやってきたこと、取り組んだ結果として、自分が納得できるものかと…。これは、ボランティア活動をやってきたからこそ、もうフラメンコをやるしかないと。親には大反対されたわけなんですけど(笑)。とにかく賭けたい、本格的にやりたいとそれは言いました。


−その後はどういう生活だったのでしょうか。

 社会福祉士の資格を取るために専門学校に通っていましたので、そこを中退しました。鍵田のお母さんにお願いをして、スタジオの近くでバイトをして、とにかく移動の時間ももったいなかったから、泊めさせてください、居候させてくださいって(笑)。ほんとに自分の気持ちだけで、鍵田はプロになったらとかそういうことは全く言わない人だったですから、びっくりしちゃってました。自分で頭から思っていましたから、すべてを賭けて、全部今までの生活を捨ててね。

  でも、本当に楽しかったです。没頭して没頭して、楽しいだけだった。その頃はもう本当に楽しくって、ただ自分の好きなことだけでね。レッスンも楽しくって全然つらいと思ったことは無いです。楽しかった、毎日が。



−フラメンコについて少し教えてください。

 北インドのジプシー(ロマ民族)が16世紀から2世紀以上かけて18世紀の後半にスペインのアンダルシア地方にたどり着いて、そこでもともとスペインにあった民族音楽だとか舞踊などを取り入れてできあがったのがフラメンコなんです。でも、ジプシーを取り締まる法律なども出来たりして、不自由な生活を強いられていたんですね。そういった中で、生活の苦しみであるとか、同じ人として生きているのに差別されている痛みであるとか、そういったものを歌にして、それが踊られて、という風にできていったんですね。だから、労働の歌も多いし、生と死にまつわる歌とかがすごく多いんです。日本ではもう無くなってしまった生活の中に根ざした歌とか踊りですね。盆踊りよりももっと深いものがあるような。友達と会って盛り上がって楽しければ踊られる歌われるものですね。

  僕たちはイメージとして、スペイン人がみんなフラメンコを踊っていると思ってしまうんですけど、意外とやっている人は少ないですね。全く知らない人の方が多いくらい。日本人だからといって、必ず民謡が歌えたり、盆踊りや阿波踊りが踊れたり好きなわけではないのと同じですが。


− 佐藤さんの作品について聞かせてください。

 どうしてもフラメンコをやるとスペイン人の後追いみたいな形になってしまうので、そこでやっぱり自分のフラメンコの形というのをどうにかイメージをしてやっています。日本人もスペイン人もない佐藤浩希にしかできないような形が少しでも出せればと、縛られない新鮮さのある作品を選んでいます。

  そういった中で、最初に選んだのが「レモン哀歌〜智恵子の生涯〜」なのですが、高校時代に智恵子抄を初めて読んで、その詩集が大好きだったんです。フラメンコを始めてから、何か作品をやるんだったら、まずやりたいなと前から思っていました。高村光太郎と智恵子はお互いアーティストで、光太郎がどんどんと成功していく中で、家庭を支えなければならない、女性という立場で家庭を守り、光太郎を支えていくことを自分の幸せとも感じていたけれども、自分のアーティストとしての生き方みたいなものとどうしても矛盾してきてしまう。その矛盾の中で、その一方を貫き通したが故に、壊れてしまう。それでもかつ、光太郎を愛し、切り絵を始めるんです。とても美しい作品なのですが、彼女の執念というんですか、愛みたいなもの、痛いまでのその思いをすごくその表現したかった。この作品で文化庁の芸術祭に初参加をし、鍵田の智恵子の演技が評価をされて、新人賞を受賞しました。



− ほかにはどういう思いで作品を作られていますか。

 常に作品を通して、本当の人の生き方というか、いろいろな障害があるけれども、それを貫き通して生きていく姿というか、自分の本当の幸せというものを探し求めていく姿を描きたいなと。

  例えば智恵子は、頭がおかしくなったとしても、あれだけの人生を生きられたって言うのは、僕にとっては美しい幸せな人生だったと思うし、そうではなく、人を愛せず、妥協して生きていく生き方というのは、僕にとっては、生きながらにして死んでいるようなものですよね。本当に生きているというのは、痛みは伴うけれども本当に生きている実感ていうのがあるんじゃないかなと思うんですね。

  この後の「曽根崎心中」にもそれと同じ精神性があって、ふたりはだまされて死んでいくわけだけれども、そのふたりの愛を貫き通して、来世で結ばれることを願って死んでいく、彼女らは来世というものを信じて、死というものを終わりとして選んでいるわけではなくて、ふたりの愛を貫き通した結果としてね、死があったというだけであって、悲しい結末には僕は思えないんです。


− 「曽根崎心中」には阿木燿子さんと宇崎竜童さんが関わっていられますが。

 これはすごい偶然で、新しい作品についてスタッフと話し、近松門左衛門の心中ものをやろうということに決まっていました。その一月後くらいに阿木さんのお店でライブをやって、その後に話があると言われて。

  阿木さん達は20年前に「ロック曽根崎心中」を作ったことがあり、今度は是非フラメンコでやってみたいとうお話しで。是非一緒にやりたいんだけどって。その時にびっくりしてしまって、自分たちも考えていましたって。それで話がとんとん拍子に進んでいって。願ってもいないね、日本を代表する作詞・作曲家の力を得られるなんていうのは、神様からの贈り物のような気がしました。


− スペインにもよく行かれるそうですね。

 スペインで生活するということが、フラメンコを体の中に取り入れるというか、振りをただ習うというのは、形だけをという感じなので、踊りを習う必要はなくて、それよりも向こうでは、スペイン語を話したりだとか、向こうの食事をしたりだとか、そういった生活習慣などにふれることを通して、フラメンコを生んだ土地のエキスを吸収するために行っています。97年に始めて行って、その後、年に2,3回行って、今年も6月にひと月ほど行っていました。


− 滞在先のへレスというフラメンコのメッカで行われたフェスティバルに参加をされたそうですね。

 もともとフラメンコをやるからには、スペインの人とも対等に勝負したいと思っていたんです。日本で「曽根崎心中」を上演するって決まったときから、向こうでやりたいと。

  ただ現実というのはすごい厳しくて、フェスティバル・デ・ヘレスには、スペイン人でも本当にきちんと名のある人でないと出られるものではないんですね。まして、外国人なんて言うのは、歌舞伎の新作をアメリカ人がやるようなもの。挑戦するというか、雲をつかむ様な感じだったんです。でも出させてもらえることになって、「曽根崎心中」を上演しました。

  それまでも、へレスの町でフラメンコを上演することはありましたが、このフェスティバルは、日本の紅白歌合戦くらいのものなので、出させてもらえると言うことにすごくびっくりしました


− 今後の目標というか夢を聞かせてください。

 また新しい作品を作って、世界に発信していきたいという思いはあります。あと、自分の表現活動とは違って、フラメンコを日本に伝えていくというか、間違えずにきちんとしたフラメンコを踊りながら紹介して、少しずつでも普及させていきたいなと。そういう仕事をやっていきたいと思っています。


− 最後に高校時代の思い出を聞かせてください。

 ボランティア活動が一番、思い出に残っています。いろいろな人との出会いが自分の中に植え付けられて、人生の重みを感じていました。その時は何もできなかったけれど、今は作品作りをしていく中で、いただいたメッセージみたいなものをやっと自分が少しずつ活かせているなと。そういう気持ちでいます。それがなかったら今の自分はないと。


−突然の依頼にも昔と変わらぬ大きな明るい受け答えで引き受けていただきました。10月の公演に向けて忙しく、 日本にいる間は休み無くレッスンをされているということで、合間を縫ってお話しを伺いました。
 最初の出会いは、生徒会長だった私に、「先輩、ボランティア活動しましょう!」といきなり声を掛けてきた一年生。
ボランティア同好会からユネスコ・イマジン部の創設とそこには彼の積極的な姿がありました。卒業後も年に何回か会って、どんどんとたくましくなっていく彼に、努力の足りない先輩としては、「先輩、先輩!」と 言われるとなんだか少しくすぐったい思いをしていました。そんな後輩の真の姿を垣間見ることができました。