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池田 幸也 先生

担当教科:社会科
昭和28年生まれ 東京都杉並区出身
昭和63年4月〜 都立田無高校に着任
(都立田柄高校から)
平成10年4月〜 都立忠生高校に転出
平成12年4月〜 常磐大学コミュニティ
           振興学部助教授

――先生の近況をお聞かせください

現在、水戸−東京を行き来しています。車で外環を通って東京へ帰ってくると、なぜか田無高校の前を通ってしまいますね。都立高校の中で一番長く勤めた田無高校には自然に引き寄せられてしまいます(笑)。
いま勤めているコミュニティ振興学部は、市民の参画やまちづくりがテーマです。わたしは主に、ボランティア論やボランティアコーディネート論、NPOやNGOのマネジメントなどを担当しています。このような講座を担当することになった背景には、田無高校でユネスコ部の顧問をしていたことも関係がありますね。

――顧問だったユネスコ部の話を聞かせてください

田無高校に転勤した年だったと思います。石澤君が生徒会長だった時、誰かのために「何かしたい」という1年生の佐藤君を紹介してくれたのがきっかけでしたね。
佐藤君と相談した結果、彼は仲間を集めて同好会をつくり、ユネスコ・イマジンというボランティア活動を行う部活動をつくっていきました。これは、東京都社会福祉協議会が制作した「何かしたい」という記録映画(VTR有)にもなりました。
あの時の活動は、地域の人々と出会い、考え、調べ行動するというもので、わたしも田無の地域を知ることができ、また多くの人々に出会い、たくさんのことを学ぶことができました。あのころ一番願っていたのは、学校で学んだこと、部活動や行事など行っていることを、もっと地域社会の課題とつないでいきたいということでした。
今、「地域に開かれた学校」ということばをよく耳にしますが、学校も地域の一員だといえるような相互の関係づくりが必要だと思っています。

――先生が教員を目指した理由は何ですか

わたしが通っていた中学校の各教室には、校訓「伸びていく」の一語が額に掲げられていました。田無高校では「叡智」「敬愛」「剛健」「自律」でしたね。中学生のわたしは、授業の合間に時折、「伸びていく」をみては、ずっとイスに座ったままの講義ばかりでどうして伸びていくことができるのか。あれもこれも生徒の活動を制約しようとする雰囲気のなかで、どうして生徒は伸びていくことができるのかと、疑問をいだいていました。そこで、教育や学校のあり方を問い直すこと、それに挑戦したいという気持ちになったのです。より良い社会を創造する源は、次の世代の人々を育む営みが大事ですよね。

――高校から大学に移られてだいぶ環境が変わったと思いますが

違いといえば、学生の年齢が上がったこと、公立から私立になったことぐらいです。私自身はやっていることが変わったという気はしません。人と人の関わりや社会の課題を自分の問題として考えることができる人を育むこと。そのために必要な知識や情報を提供し、それに取り組む行動力や自信を獲得できるような体験の機会を設けること。このような学びの世界を創造していく仕事をしているというのは同じつもりです。とはいえ、実際、思うようにできないというのも変わりませんが…。

――田無高校での思い出は

たくさんあります。まずは転任してきた年のこと、小心者のわたしは声の大きな先生がたくさんいる職員室に長くいることができませんでした。その結果、生徒会顧問の職権を乱用(?)して、よく生徒会室にいました。おかげで、生徒会役員のみなさんから田無高校のことを色々と教えてもらうことができました。
また、10周年記念式典とその行事を係として担当することになりましたが、その時に、合唱コンクールや部活動など日頃の学校での活動の成果を発揮して、記念行事の企画・運営から司会・進行なども行った生徒のみなさんの素晴らしさは忘れることができません。

――最後に卒業生に一言お願いします

高校時代の学校は自分の通過点ですが、卒業したあとの学校は自分と社会の財産です。この財産は、同窓の人々が応援し、また育てていかなければならないものだと思います。卒業しても母校は永遠に自分の学校です。忘れないで応援し続けて欲しいと思います。

−取材を終えて−

卒業して12年が経ちました。卒業後も文化祭などの際に高校を訪ね、先生と取り留めなく様々な話をしていたことを昨日のことのように思い出します。ユネスコ部の設立までを描いた「何かしたい」も講義に使われているそうです。ダジャレもまだまだご健在でした。いや、さらに磨きがかかっていたかも…。最後の先生からの一言、母校を応援する気持ちは、本当に忘れずに持ち続けていきたいですね。

聞き手 石澤 善一(5期)